MANAIにゆかりがある人を紹介する「MANAIピープル」。今回は、これまでMANAIセミナーを二度開催していただいた、サイエンスコミュニケーターの古澤輝由(ふるさわ・きよし)特任准教授に、なぜ科学の道に進まれたのかなどについてお話を伺いました。

“イグおじさん”こと古澤輝由先生。
ところで、みなさんはサイエンスコミュニケーターという職業を聞いたことがありますか?科学と科学者ではない人々とをつなぐ人材のことで、独立行政法人の「国立科学博物館」が「サイエンスコミュニケータ養成実践講座」を開講しているほか、国⽴研究開発法⼈の「科学技術振興機構」が運営する「⽇本科学未来館」では、科学コミュニケーターが展示やイベントなどの企画を通して、科学や最先端の技術を誰もが理解できる形で広報しています。未来館は、「科学技術を分かりやすく伝えるとともに、科学技術のあり方や未来社会をどう築いていくかについて、社会のさまざまな立場の人と対話をしながら考えていく」ことが科学コミュニケーターの役割だと明記しています。
古澤先生は現在、サイエンスコミュニケーターであると同時に、立教大学理学部の「共通教育推進室(Science Communication Office for Liberal Arts、SCOLA)」に所属し、「理学とキャリア」や「サイエンス・コミュニケーション入門」といった授業も担当されています。
――古澤先生は、小さいころから科学に興味を持っていたのでしょうか?
(古澤先生)科学っぽいことは子どものころから嫌いではなかったですね。学研の『科学』シリーズとか。ただ、高校に入ると一番得意だった科目は国語で、次は英語。理系科目は全然(ダメ)でした。だから、進路選択で文系・理系を選ぶことになった時、成績的には文系。しかし、環境問題を学ぶなら、環境問題を解決するなら理系だろうと当時は狭い了見で思い、理系に進みました。中学の時の理科の先生が、教科書の内容とは別に世界や環境の話をしてくれて、とてもショッキングだった。そこから、将来は環境問題を学びたいと思いました。今でこそたくさんとあるが、当時、環境と付く学部・学科はかなり少なかった。そして(入学したのが)東京薬科大学の生命科学部環境生命科学科。今は名前が変わっていますがEnvironmental Life Science。
ただ大学に入ってみると、分子生物学だったり、ゲノム解析だったり、自分がイメージしていた”環境“とは違いました。その中で、生命倫理・哲学・心理学は好きでした。ある日、ラットの解剖実習をやった時に、解剖するということがどういうことかを書くレポートがありました。僕は解剖後にこのような課題を出すのではなく、解剖前にもやるべきだと思って先生に進言したら、邪見に扱われた。動物愛護派の学生っているよね、という感じに。自分の考えを理解してもらえなかったのは悔しかったです。そして、この大学1・2年の時に、人間がどう自然と向き合うべきか、人間と科学がどう自然・社会と向き合っていくかについて興味を持ち、卒論は『人間中心主義再考』というタイトルでした。
大学院では環境哲学の研究室に入りました。一般的には生命倫理・環境倫理・医療倫理という言葉が使われているが、倫理はどこまで科学・医療がやっていいのかというルール的なこと。(それに対して)環境哲学は、人間と自然の関係がどのようにあるべきかを考える学問です。
大学院での研究のベースは、アメリカの国立公園がどのような思想的背景で成立したかを追うことでした。アメリカの国立公園制度がどういう流れで作られていったのか、その中でどういう訴訟があって、どういう考えがあったかを整理しました。そして、自然と良好な関係を持ちうる人間中心主義とは

アフリカのマラウイ共和国ではテレビを通した教育活動も。
――大学院を卒業後すぐに青年海外協力隊に応募しているのでしょうか?
(古澤先生)卒業後6年間は私立高校で生物を教えていました。中高の理科免許を持っています。
――そうなのですね!ではその後なぜ、協力隊に参加しようと思ったのでしょうか?
(古澤先生)教えることは好きだったしやりがいもありましたが、自分がもともとやりたいと思っていたことではありませんでした。あとは、旅行ではなくて海外で生活したかったというのがあります。30歳を超えていたので語学留学は違う。働けて、自分が今までやってきたことを還元できる。全部合致してちょうど話がきたのが青年海外協力隊でした。

アフリカで行ったPICO factory の公演。
――アフリカは希望されたのでしょうか?
(古澤先生)今は違うかもしれないが、国は第3希望まで出せました。(アフリカの)マラウイ共和国は第2希望でした。全然知らない国でしたが、1)英語圏であること、2)理科の授業をやるだけではなく、近隣の学校との関係性を作りながら、地域でのカウンセリングや教育サポートが(仕事内容に)あり、一つの学校で先生をやるというのだけではないのが魅力で、マラウイを(希望に)入れました。

PICO factoryの公演。
――その時の協力隊のメンバーとサイエンス・エンターテインメント集団「PICO factory」を設立し、帰国後もPICO factory Japanとして活動されています。最近はどのようなことをなさっていますか?
(古澤先生)10月にも横浜でワークショップを開催しました。定期的にやっている場所は横浜・洋光台の「はまぎん こども宇宙科学館」。最近はオンラインが多いです。内容は、テーマ「テーマ「科学手品でバズらせろ! 〜PICOチャンネルで配信者デビュー〜」といった感じで、小学生向けが多い。科学工作をやったり、オリンピックにちなんだ科学クイズをやったり。
マラウイでは、働いていたのはセカンダリースクール(中高)だったが、もっと小さい子を対象にしたいということで、劇団を作って地域を回りました。見せるのはパントマイム。科学的解説は必要だが、言葉を使わなくても十分に楽しめるというのがベースのコンセプト。3年間で1万人ぐらいの観客が来ました。

マラウイ共和国での授業風景。
――先生がサイエンスコミュニケーターという職業を意識するようになったのはいつでしょうか。
(古澤先生)意識するようになったのは、日本科学未来館で働くようになってからです。帰国後、教育・科学・芸術・国際の4つを生かせる場所があったらいいのにな、と思っていた時に出会ったのが日本科学未来館の科学コミュニケーター職。未来館はみんなで科学を作っていく場所、対話の場所で、そういう視点が好きでした。科学振興ではなく、科学技術を社会でどう扱っていくかをみんなで考える場所。新しい技術ができた時に、本当にそれでいいの?というのを考えるのが科学コミュニケーション。もっとも、名前は付いていなかったが、振り返るとサイエンス・コミュニケーションを教員の始めのころからやっていたと思います。
――大学のほか、PICOの活動やさまざまなイベントを実施されています。先生が一番伝えたいことは何でしょうか?
(古澤先生)科学である必要はなく、経験や選択肢の種を蒔くことが自分の仕事だと思っています。感受性・アンテナを広く待ちたいよね、という話を日本でもアフリカでもしています。自分で意識的に広げるのもそうだが、感受性が広がるような機会・経験を作りたい。そして、1)Feel Wonders(不思議を感じよう)、2 )Feed Imagination(想像力を伸ばそう)、3 )Think Logically(論理的に考えよう)と伝えています。レイチェル・カーソンのsense of wonderではないが、不思議を感じる力をどうやって伸ばすかが根底にあって、不思議を感じたら、不思議がどういうものか思考が及ばないといけないので、不思議を噛み砕くにはイマジネーションが必要。そして、(不思議を)消化した上で、実際はどうなの。どうするの、とロジカルに考えないといけません。さらに、理系ではない人がサイエンスとどう向き合うかが大事だと思っています。
――立教大学理学部の共通教育推進室(SCOLA)ではどのようなことを教えているのでしょうか?
(古澤先生)大きな柱は、1)サイエンス・コミュニケーションに関する教育、2)地域・社会との連携、3)サイエンスに関するアウトリーチの3つです。1)に関していえば、「理学とキャリア」「理数教育企画」「サイエンス・コミュニケーション入門」などの授業があります。2)は、豊島区と立教が連携協定を結んでいるので、地域の小学校で実験教室をやったり、小学生を呼んで「おもしろサイエンスワールド」という実験教室をやったりしていたが、コロナでなくなり今は(やり方を)見直しています。はやぶさ2のカメラを作っていた先生とのサイエンスカフェ。トークイベント。小中学校では難しい電子顕微鏡を使ったコンテンツなどをオンラインでやっています。

PICO factory Japanの公演風景。
――先生には“イグおじさん”というニックネームもありますが、イグノーベル賞に興味を持ったきっかけは何でしょうか。
(古澤先生)もともとくだらないものが好きで、ニュースとかで(イグノーベル賞のことを見て)面白いと思っていました。本格的に関わるようになったのは2014、2015年。日本科学未来館でイグノーベル賞をちゃんと取り上げるようになり、創設者のマーク(エイブラハムズさん)とも連絡を取るようになりました。その過程でイグノーベル賞への理解が深まり、知れば知るほどwell designedな賞だと思うようになりました。がちがちにプロデュースされているが、それを見せない。自分も関わりたいと思って授賞式を手伝ったのが経緯です。
――科学教育を取り巻く環境には変化がありますでしょうか。
(古澤先生)アクティブラーニング、学びが声高に叫ばれるようになり、学びの機会は増えました。MANAIもそうですが、私たちが子どもだったころと比べて、塾・習い事のバリエーションは増えました。昔は実験教室のようなものはそれほどなかった。さらにそこで、研究の仕方を教える、一緒に研究するというのはなかった。ただ、将来に不安を抱いている子たちが多い。自分で自分の可能性にキャップを掛けるというか、とにかくチャレンジしたがらない。
僕の場合はレアケースかもしれないが、「一つの仕事に納まっていないのは不安ではないんですか」とよく聞かれます。20年前、就職氷河期だったことを考えると、今は就職の口はいっぱいあるし、やりたいことだってやっていいし、転職だって白い目で見られない。(それにもかかわらず)何かをやらなくてはいけない、就活しなくてはいけない、失敗してはいけない、というところに囚われている子が多いです。
また、「理系に行くと就職に困るってきくんですけど」という質問も多いです。昔と違って、修士・博士を取ったあと、いろいろな働き方があります。サイエンス・コミュニケーション職もそうですし、URA:ユニバーシティ・リサーチ・アドミニストレータという職もあります。研究広報をしたり、研究費を取ってきたり。
探求、研究に対する見方・考え方がここ10年ぐらいで変わってきています。もっと自然に探求、研究の職につく人が増えるのではないでしょうか。
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古澤輝由(ふるさわ・きよし)
立教大学 理学部 SCOLA 特任准教授、サイエンスコミュニケーター。
高校で生物教師として教鞭を執る傍ら、音楽ライター、DJとして
帰国後、日本科学未来館での科学コミュニケーター職を経て、コミ
古澤先生、ありがとうございました!